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栃木県那須町千振地区 開拓の歴史 〜永井さんたちの苦難〜 [歴史]

栃木県那須町にある千振地区。ここには広大な牧場と農地が広がっています。
しかし、この街を切り開いた永井さん千振開拓団とその歴史はあまり知られていません。

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※出典:http://www.nasu-resorts.jp/comfortable/nature/post_543.php

この知られざる那須千振歴史を、ご紹介したいと思います。

と、その前に


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自然溢れる栃木県那須町にある千振地区では、
70年前にこの町を作り上げてきた人々の、想像を絶する物語がありました。

日清戦争、日露戦争と日本は勝利を続け、「台湾」「朝鮮」「関東州」と手に入れました。

1931年 満州事変以降、日本から満州への移民が本格化しました。
そして1936年、広田内閣は中国侵略を企て「満蒙開拓移民推進計画」を決議し、
500万人もの日本人の移住を計画し、推進しました。

これには戦前から政府が進めていた北アメリカや南米諸国への日本人移民に段階的制限が
加えられるようになったことと、昭和恐慌による日本の農村地域のダメージが大きく、
農業従事者らが移民を志望する強い要望が重なったことで行なわれました。

満州開拓移民は農業従事社を中心に地縁関係に重点を置いた開拓団(移民団)が
全国に結成され、実際に移民する前に農業研修や軍事訓練を受け、
中国大陸へ「満州開拓武装移民団」として送り込まれました。

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※出典:http://www.asahi.com/information/db/history_photo/20070114.html

当時の移民募集のスローガンとして「王道楽土」と「五族協和」という言葉が掲げられ、
大々的なキャンペーンのもと多くの応募がありました。
※「王道楽土」とはアジア的理想国家(楽土)を、西洋の武による統治(覇道)ではなく
東洋の徳による統治(王道)で造るという意味が込められた言葉です。
そして、「五族協和」とは満州・日本・モンゴル・漢・朝鮮)の五民族が協力し、
平和な国造りを行うことを意味する言葉です。

当時の様子がこちらをご覧いただければ分かると思います↓


しかし、満蒙開拓移民団の入植地の確保にあたっては「匪情悪化」を理由にして、
既存の地元農民が開墾している農村や土地を「無人地帯」に指定し、
地元農民を新たに設定した「集団部落」へ強制移住させるとともに、
満州拓殖公社がこれらの無人地帯を安価で強制的に買い上げ日本人開拓移民を入植させるという
政策が行われました。
この政策により2000万ヘクタールの移民用地が収容されました。

このような横暴が行なわれるなか、既存の地元住民と融和し
現地の人々の平和な家庭生活が保障されていたという場所がありました。
その場所を開拓していたのが、「開拓団の模範」と呼ばれた、
宗光彦団長率いる「千振開拓団」でした。

第二次世界大戦も終盤になると、開拓団員も戦争へと駆り出され、
千振開拓団には若い男性は残っておらず、老人・女性・子供、そして病人しかいないという
状況になってしまいました。

1945年 ついに日本は降伏をして、第二次世界大戦に終止符が打たれると、
今まで強制移住させられていた地元住民が移民を襲うようになり、
さらに旧ソ連が満州へと侵攻を始めました。

今まで満州で開拓団を守ってきた関東軍は敗戦と同時に撤退し、
千振開拓団は日本から見捨てられる形で満州に取り残されてしまいました。

千振開拓団員の一人、永井とくさんは2012年のNHK BSプレミアムドラマ
開拓者たち」の主人公 阿部ハツのモデルとなりました。

永井さんは「大陸の花嫁」として満州へと渡り、
開拓者の妻として敗戦後は、2歳と3歳の娘を背負いながら
避難民に紛れ、旧ソ連からの空襲や、既存地元住民からの襲撃から
幾度となく逃げ回っていました。

多くの仲間たちは、子供たちを助けることができず
逃げ切れないと判断して自害していったと言います。
結局、永井さんの2人の娘も十分な食事がとれず、
栄養失調で亡くなってしまいました・・・。

それでもなんとか生き延びた永井さんは日本へと帰ったのですが、
そもそも食い扶持を減らすために嫁に出された永井さんは、
帰る家もなく、途方に暮れていました。

そんな時に、開拓団の団長から誘いを受けて
那須千振開拓団」に入団し、栃木県那須町の開拓を試みました。

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※出典:http://www.nasu-resorts.jp/comfortable/nature/post_543.php

当時の高久地区(現:千振地区)は、もちろん開拓されていない土地なので、
作物もまともに育つわけはありませんでした。

最初は馬が5〜6頭いるだけで、麦や蕎麦を蒔いては収穫をするといった
200名程度の集団生活を行なっていました。
もちろんインフラはなにもなく、みんなの力で電気・水道・ダムを導入し、
自力で電柱を立てて東京電力に連絡をしたと言います。

今でも千振地区の水道は、那須町の水道ではなく、専用の水道だそうです。

永井さんは助産師の仕事をしながら一日中働き詰めていました。
その後、同じく満州で妻子を失った幸作さんと結婚をして、
いまでは長男夫婦と孫の5人と一緒に幸せに暮らしています。
現在98歳です。

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※出典:http://gohoudaira.cocolog-nifty.com/nasu/2012/09/post-ba0c.html

いままでも、戦争そのものだけでなく、
戦争がもたらしたその後の後遺症も含めて理解しているつもりでしたが、
改めてこれだけの悲惨な状況を目の当たりにして、
また新たに戦争の悲しみと無意味さを実感させられました。

そして、そんな状況の中、生き抜いた女性の強さに
脱帽し、自分の非力さに情けなさを感じています。

自分のすべきことを改めて見直し、その為に戦うことを
今一度思い出させてくれました。

是非とも日本人として知っておくべき歴史の一つだと思います。
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